A traffic accident(s) [ 07 ]
以下の文章は、尊敬する友人kuro_rakko氏のWeblog「backlit by the moon」の記事の無断転載である
音楽やら写真やらいろいろについて、感覚で感じているものについて、いままで特に整理する必要を感じていなかったのだけど、なんとなく書いてみたりしようと考えてる。いや実際は前から考えていたのだけど、断定できないあやふやなことを勉強不足のまま書くことが気恥ずかしくて抵抗があった。あったのだけれど、不定形のまだ形になっていない言説を継続している人達というのは、継続によってなにかすごく興味深い独自の解釈や分析をして、そこから一般的な解よりもすこぶる愉しいものを導いたりつまづいたり迷走したりしている。そしてなぜか続けていても、不定形はそのまま。というのは何もその人達が成長していないということではなく、言葉を繊細に扱うからなんだろうと思う。と書いても、その人達が誰を指すのかは私にしかわからないのでなんともいえないだろうけど。
と、何を書くつもりだったかというと、例えば Underworldのどこがいいかっていうと完全さだなぁと思う。完全なもの = 技巧的なもの。自分は結構好きなんだけれど、あと最近だとジュリアード弦楽四重奏とか萌える。あとレントゲンヴェルゲの謳い文句「超絶技巧」なんてのもそうだ。ジュリアードの音楽評で「完全さはその後の規範となりうる」なんて言っている人がいて、乱暴だけどそういう言い方もありだなと思ったのだった。気持ちは充分わかる。しかし技巧的に素晴らしいというのは、例えば工業製品などで精度が出ていてすごいというのならば尺度があってわかり易いけれど、美しさに纏わる技巧ってどうなのよってところが釈然としない。不完全さを含む完全とかもあるよなぁと思うからなのだけれど。うーん、でもあれか、細部にどれだけ気を使えるか的なものが技巧なのか。細部に神は宿る的なアレ
知とはなんと偉大な存在なのだろうか。
先日遠藤響子さんというシンガーのコンサートに出掛けた。18年前にたった一度だけライブへ足を運び、その時頂いた「サ・ヴァ・エ・トワ?」というCDをこの歳になるまでずっと聴いてきた。確かに20代の頃は今よりももっと音楽が自分の心を占める割合が多かったから、アルバム1枚を通して聴くのが当たり前だったけれども、40を過ぎた今ではこの1枚以外は無理だと思う。新作中心のコンサートは2部構成でとても素晴らしかった。なかでもミニアルバム「愛のおはなし」に収録されている「あなたから見たら」という曲は詩(”うた”と読んで頂ければ幸いだ)がとても”強く”て、今よりもずっと若くて朗らかでなによりも健康だった自分へ投射してしまって自然と涙がこぼれてしまった。当然こうした芸術に感動するという感情は自己とその作品との対比が原動力の1つなのだから当たり前の事なのだけれども、自分の込み入った記憶を何分間かで言い当てられてしまうと、もう芸術論云々なんてどうでも構わないという気持ちになってしまう。是非ご興味を持たれた向きはお聞きになることをお勧めするが、もし音響と言う部分でその楽曲や遠藤さんの声が嫌いだとお感じになられたとしても少なくともその詩は普遍的な美しさを備えた稀有な存在であると私は信じているし、きっと皆様もそう感じると確信している。
かつてリーダーズ・ダイジェストという雑誌があった、精確に申し上げると現在でもそのオリジナルである米国版等は発行されており全米で2番目に発行部数の多い雑誌だそうだ。だが残念なことに日本語版は1986年2月末で終わっている(と表記したのは廃刊か休刊か不明であるからだ)その理由は誌名が示す通りの編集方針にあった、つまりこの雑誌の記事は大半が他の雑誌や新聞あるいは書籍の要約であり、いわばペーパーメディアのグローバルタグのような存在であった。ある時期までは日本市場でも受け入れられたのだが(注 日本での創刊は1946年であったはずなので当初のことは調べていない)やがて物事を手軽に要約するべきではないといった”ダイジェスティブ文化批判”のような論調が増えて先に述べた顛末となる。まあその事自体は単純に定期刊行物のライフサイクルとしてみれば普通のことかもしれないが、翻ってこの21世紀初頭の現在こうして私も利用しているインターネットに当てはめてみるとどうだろうか(以下電子メイルやファイル転送などのコミュニケーションツールとしての側面はすべて除外する)確かにリサーチは非常に楽になった、この辺りはネットの海にいくらでもころがっている話なので割愛するが、個人的にはあの非常に不親切で非効率な国会図書館や親切だがコストが嵩み調べたい事象そのものよりコピーの枚数を如何に減らすかに心を砕かなければならずついでに近所に飲食店が無くなんとか行く気になるぎりぎりの距離にあるうどん屋はある意味人間博物館ともいえる大宅文庫等へ行かずともある程度の概要は手にすることが出来たような気分にはなる、しかしこれは結局自分の中の疑問を検索にかけると非常に関連性が高いものから全く無関係なものまで夥しい要約の海に放り出されてその先へ駒を進めると少しは役に立つがその数は無限大でその先にももっともらしい紀要やら目次やらのの有象無象が転がっているだけで、最終的には書店へ行くほうが精神的にも肉体的にも楽な場合が圧倒的だ。非常に稚拙な文章で申し訳ないが例えて言うなら自分の端末の中の”お気に入り”の先には想像を絶する要約があるだけでその先1つ々にも同じようなモノが延々と続いている謂わば”擬似知のフラクタル状態”なわけで、これはハイパーテキストやらキサナドゥだかザナドゥだかも殆どその当初の位置づけには全く達していないも同然で例えばあなたが今ご覧になっているこのWeblogも当然生身のオザワエイイチの要約でありその情報量は非常にプァなものだ。だがこれには非常に有効な解決法がある、もちろん前者のダイジェスティブ文化の終焉とインターネットの類似性に関しては私など全く役に立たないが後者に関しては方法は簡単だ。例えば私の個展へ行くのが先ずは手軽な方法だろう(来年は秋に予定している)しかしこの方法には重大な欠点がある、それはつまり実際に写真展を開催するにはなかなか”入用”である事だ、毎年必ず私の保護者であり最大の理解者であるカミさんの目が三角に釣り上がり一経営者になってしまう程の出費なわけだ。だがこれも劇的に改善する方法があるのでお教えしよう。それはズバリ作品を購入することだ、少なくとも本Weblog上の作品ならば如何様なリクエストにもお答えしよう、勿論価格は応談だ。ただし1つだけ私にあなたのポートレートを撮影させることだけはお勧めしない、要するに私は人間を撮ることが非常に下手であるので毎日不快な気分になることだけは請合う。話が逸れたが今回の記事にうってつけと思われる書籍があるの1つ紹介する。塩谷紘 著 『「リーダイ」の死 -- 最後の編集長のレクイエム』 サイマル出版会 1986年7月 ISBN 4-377-30712-6(これも要約の総本山ウィキペディアからの盗用である)残念ながらネット上の検索で私はこの本を探し出せなかったので、ご興味のある向きは是非書店へ足を伸ばしていただきたい。
本記事については偉大なる友人Toru氏に謝意を表する。
goinがどこであった知っている我々がknowinであったことしかし我々が傾けるということを知っているAndであるどんなweve見られたAndが我々が知っているほとんど子供たちAndであったかについて言うそれを考え出す、よく、我々は知っているしかし、我々はdontしますどこでweve、我々は何を将来がそうであるAndにしてもらいたいです特定のGive我々時間
どこへのにも道の上にありませんでした
中でさあ
どこににも乗れないターキン
よく、その乗車をしてください
Im feelinは、このmorninをOKします
そして、あなたは知っています、
パラダイスへの道の上にありました
さあ行くぞ、ここでは、我々は行きます
多分、あなたはあなたが私である所で、dontが気にかけるのを不思議に思うでしょう
ここでは、時間が我々の横のTakeの上にあるところは、そこのあなたです...あなたをそこに連れて行ってください
どこへのにも道の上にありませんでした
どこへのにも道の上にありませんでした
どこへのにも道の上にありませんでした
Theresが、私の心の都市です
ついて来て、その乗車をしてください
そして、すべて右、赤ちゃん、すべて右
そして、その非常に遠いアウェイ
しかし、それが日々成長すること
そして、すべて右、赤ちゃん、すべて右
彼らは、何をするべきかについて、あなたに話すことができます
しかし、theyllはあなたをばかにします
そして、すべて右、赤ちゃん、すべて右
どこへのにも道の上にありませんでした
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